YURI /ゆり
対話から生まれる ── 社会構成主義と、感情の代謝
2026年07月10日
見出しはありません
要約を生成中...
今月の学びは、とても多く、深い。その中でも、自分の軸である二つを、ここに記しておこうと思う。
社会構成主義(Social Construction)と、感情の代謝(Emotional Metabolism)だ。
一つ目の社会構成主義は、私のメンターであるブランドデザイナー・後藤さんから教わった言葉だ。
最近出会ったばかりで、まだ完全には自分のものになっていない。全5章のうち、まだ3章までしか読んでいないが、この本は、確実に私を夢中にさせている。

この本を読み進めるうちに、私の中に一つの問いが生まれた。
「そもそも、この社会構成主義という考えは、どこから来たのだろう?」
本を書いたガーゲンが最初に思いついたのだろうか。
そう思って調べていくと、そうではなかった。
社会構成主義は、ある一人の秀才がゼロから発明したものではなく、
100年以上かけて何人もの手で少しずつ深められ、形を変えてきた考えだった。
その歩みが、私にはとても面白かったので、ここに残しておきたい。
エミール・デュルケーム(1858〜1917/社会学者)
── 土台をつくった人。
「集合表象」
── 現実の枠すら、個人ではなく社会が作る、と言った。
例:「1週間は7日」。自然界に7日で区切る線はないのに、
私たちは最初からある現実のように生きている。
カール・マンハイム(1893〜1947/社会学者)
── 立場の話まで進めた人。
「存在拘束性」
── 何が正しいかは、その人の社会・時代・立場に縛られる、と言った。
例:同じ戦争でも、A国の教科書では「正義の戦い」、
B国では「侵略」。事実は同じなのに、正しさは立場で変わる。
ピーター・バーガー & トーマス・ルックマン(1966年)
── 名前をつけた人。
「社会的構成」
── 当たり前の現実は、作られ → 事実に見え → 受け継がれ、
と固まっていく、と描いた。
例:「平日は9時に出社し、土日は休む」。もとは誰かが作った約束なのに、
新しく社会に出る人は「そういうものだ」と疑わず身につける。
ケネス・J・ガーゲン(1935年〜/心理学者)
── 私が今読んでいる人。
「関係的存在」
── 心も自己も、個人の中ではなく、人との関係の中で作られる、と言った。
例:誰かの前では甘える自分、仕事相手にはしっかりした自分、
親友にはふざけた自分。どれが本当か? 答えは「全部が本当」。
自分は、関係と関係のあいだに生きている。
こうして並べてみて、はっとした。
ばらばらに見えた4人が、「現実」という一本の糸でつながっていた。
社会が、私たちの「現実」の枠を作る(デュルケーム)。
その現実の「正しさ」は、立場によって違ってくる(マンハイム)。
その現実が、日常の「当たり前」として固まっていく(バーガー&ルックマン)。
そして、その「現実は作られる」という見方が、
ついに心の内側=自分自身にまで向けられた(ガーゲン)。
全部、同じ「現実」という一つの糸を、
少しずつ奥へたどっていく話だった。
社会構成主義そのものが、ゼロから生まれたのではない。
前の人がいたから、次の人が深められた。
まさに、対話と積み重ねから生まれてきたのだ。
それはこの考えの中身と、ぴったり重なっている。
この歩みを知って、
社会構成主義は、急に私自身の話になった。
現実は、社会や対話から作られる。
しかもガーゲンによれば、私の「心」や「自己」という、
一番自分だけのものに思えるところまで、
人との関わりの中で作られている。
だとしたら、現実は、私自身も作っていけるものだ。
誰と、どんな対話をするか。
対話をしたからこそ、そこに生まれるものがある。
第1章で、私の心に一番残った言葉がある。
構成主義者にとって、自分が嫌悪するものを蹴散らすのは、間違った行為です。それは「唯一無二の真実」が稼働していることになります。構成主義者は、新しい現実や新しい価値観が現れてくるような対話の仕方を支持します。課題は、「唯一のベストな方法」を突き止めることではなく、お互いに「コラボレーション(連携)」して私たちの未来を創造していけるような関係性を築くことなのです。
これを読んだとき、
「これだったのか」と思った。
私は昔から「みんな違って、みんないい」
という言葉が好きで、よく口にしていた。
でも、「なぜ好きなの?」と
一段深く降りようとすると、言葉に詰まった。
「だって、みんな違っていいでしょう」
── その言葉自体が答えになってしまって、
それ以上ほどけない。
あまりに当たり前だと思っていたから、
なぜ自分がそう思うのか、と問うことすら、
私はスキップしていた。
その問いに、この本が答えをくれた。
「みんな違って、みんないい」
── あれは、自分の価値観を“唯一の正解”にしない、
ということだったのだ。
自分のものさしだけを正しいと決めないから、
違うものを蹴散らさずにいられる。
だから私は、あの言葉が好きだったのだ。
同時に、ずっと引っかかっていたことも、ほどけた。
「価値観の合う人としか付き合わない」という言い方を聞くと、
私はいつも少しざわっとしていた。
一見、軸がしっかりしていて良い言葉に聞こえる。
でも別の面から見ると、それは違う価値観を受け入れないという表明でもあって、
どこか寂しく、冷たく感じていた。
そのざわつきの正体が、やっとわかった。
私が引っかかっていたのは、「軸を持つこと」にではなく、
「その軸で、違うものを締め出すこと」に対してだった。
軸は、持っていていい。
それを唯一の正解にしないから、開いていられる。
この二つは、両立する。
だから私が望むのは、
価値観の合う人だけで固まった、
閉じた集まりではない。
違いが開かれたまま、
一緒に何かを作っていける、
開いた連帯のほうだ。
現実も、自己も、対話から作られる。
だとしたら、これから私が誰と出会い、
どんな対話をするかで、これからの私は作られていく。
それは、とても自由で、少し楽しみなことだ。
もう一つの軸は、感情の代謝だ。
社会構成主義が教えてくれたのは、現実も自己も、
人との関係の中で作られるということ
── 頭の、外側の話だった。
感情の代謝は、その同じことを、
もっと内側で、私自身に起こした。
メンターとの対話の中で、私は「自分」という
ブランドを言葉にしようと色々な言葉のリサーチをしていた。
その途中で、「感情の代謝」という言葉に出会った。
代謝、という言葉を、もう少し考えてみた。
代謝とは、取り込んだものを分解し、エネルギーに変えて、
いらないものを外へ出していく働きのことだ。
だから、代謝がうまくいかないと、分解されなかったものが、
エネルギーにならないまま体の中に留まっていく。
感情も、同じなのかもしれない。
代謝されない感情は、力に変わらず、ただ内側に溜まっていく。
私たちが「心が重い」「心が沈む」と言うのは、
きっとその、溜まって動かなくなった感情のことなのだ。
では、この「感情の代謝」という考えは、どこから来たのだろう。
社会構成主義のときと同じように、私はまた、気になって調べてみた。
メラニー・クライン(1882〜1960/精神分析家)
── 土台をつくった人。
抱えきれない感情を、自分から切り離して外(他者)へ投げ入れる。
そんな心の仕組みを「投影同一化」と呼んだ。
苦しい感情を、人はひとりでは抱えきれず、無意識に外へ出そうとする
── その出発点を示した。
ウィルフレッド・ビオン(1897〜1979/精神分析家)
── 「消化」を関係の話にした人。本家。
クラインに学んだビオンは、それを二人の関係の話へ進めた。
生のままの、まだ言葉にならない感情を、
もう一人が受け取り、考えられる形に変えて返す。
彼はこの働きを「経験を消化する」と呼んだ。
赤ちゃんと母、患者と分析家
── そして、私と、私の話を聞いてくれる人。
マーク・デイビス(現代/食の心理学)
── 今の言葉に言い換えた人。
同じ発想を、現代の食の心理学の言葉で言い直したのが
「エモーショナル・メタボリズム(感情の代謝)」だ。
感情も、食べ物と同じように代謝される、という。
私が最初に出会ったのは、この言葉だった。
たどっていくと、本家はビオンで、土台にクラインがいた。
並べてみて、見えたものがあった。
生のままの、扱いきれない感情は、
自分の中だけでは形を変えない。
一度、言葉にして外に出す。
誰かがそれを受け取り、消化を助けてくれる。
そうして初めて、扱える形になって返ってくる。
ということは、感情の代謝は、ひとりではできない。
もう一人、受け取る相手がいて、成り立つ。
それは、意志が弱いからでも、能力の問題でもない。
そういう構造なのだ。
そしてこの考え自体も、クラインからビオンへ、
ビオンからデイビスへと受け継がれてきた。
ひとりの発明ではなく、対話と積み重ねから、
少しずつ形になってきたものだった。
代謝の中でも、生のままの感情を分解して、
受け取れる形に変えていく。
その入口の働きを、ビオンは「消化」と呼んだ。
だからここからは、その「消化」の話をしたい。
この構造を知って、
これに思い当たる過去の自分の経験があり、はっとした。
「センスがいいね」と言われると、素直に喜べない自分がいた。
自分の仕事や作品が、褒められたり、評価されたり、なんとなく形になってはいた。
でも、自分だけは知っていた。
── ちゃんとはわかっていない、と。
「これでいいのか、何か違うんじゃないか」という疑問が、ずっとあった。
「上司も、他の人も満足している」
「できていればいいじゃないか」で終わらせることもできた。
でも実際は、生のまま、未消化な感情が私の中にずっとあったのだ。
私は、それを消化したかったのだ。
そして、私はコーチングという対話を通して、
「なぜ私は、ここに『もやっ』とするのか」を掘り下げた。
そして見えた。
私は、いい加減にやってきたんじゃない。
心から好きだったから、いつもデザインに関わっていたかったのだ。
だったら、もう一度、本気でやってみればいい
── 自分で自分に、その答えを出せた。
この答えは、ひとりでは出せなかった。
聞いてくれる相手がいて、初めて掘り下げられた。
まさに、ビオンの言う「消化」が、私に起きていた。
わかる、というのは、消化することだった。
終わったこと、過ぎたこととして手放すのではなく、
もう一度そこに降りて、理解する。
大事な経験ほど、私たちは消化しきれないまま抱えている。
そして消化の後には、吸収がある。
理解して初めて、その経験は、自分のものになる。
そして、生のままだった感情が、
ふっと、扱える形になって見えた瞬間
──「あ、これだったのか」と、
自分の中にあったものが、やっと輪郭を持つ。
その、ふっと軽くなる瞬間が、私はたまらなく好きなのだ。
社会構成主義と、感情の代謝。
二つの軸は、私に同じことを教えてくれた。
自分ひとりでは生み出せないものが、
対話から生まれる、ということだ。
本の中に、こんな一節があった。
構成主義の概念に関わることによってもたらされる最も興味深いことの一つは、それがもたらす「止まることのないクリエイティビティ(創造性)」です。……構成主義者が支持するのは、「常にいつまでも開かれたままの対話」です。そこには常に、もう一つの声、もう一つのビジョン、もう一つの構想や修正案という余地があって、「関係」にはさらなる広がりがあります。
現実も、自己も、感情も、自分の中だけでは完結しない。
誰かと交わして、はじめて形になる。
しかもその形は、そこで固まらない。
次の対話で、また作りかえられていく。
終わりが、ない。
それは、こわいことではなくて、
むしろ、止まらない創造なのだと思う。
だから私は、次に誰と出会い、
どんな対話をするかで、
これからの私がどう変わっていくのかが、楽しみでならない。
現実も、自己も、感情も
── 私は、対話の中で、作られ、作りかえられていく。
その終わりのない道を、これからも歩いていく。
要約
コメント
まだコメントはありません。